朝の空
 猫野和錆は目を覚ました。
 カーテンの隙間からこぼれる朝日を腕で遮り、鳴らない目覚まし時計の文字盤を見る。
「起きないとな……」
 一度大きく伸びをしてから起床して、手早く着替えを済ませる。
 でなければ、大変なことになるからだった。
 というのも……。
「コーヒー、おはよう」
 部屋を出た瞬間、足下に犬がじゃれついてきた。
 名前はコーヒー。その名の通り、コーヒー色のダックスフンドだ。
 これがあるから夜着では部屋から出られない。毛だらけになってしまう。
 目覚まし時計を鳴らさなくなったのも、鳴ればコーヒーが扉の前で右往左往するのを知ったからだった。
 そして、そのコーヒーの頭には小さな黄色い生き物が鎮座している。
「ぴーちゃんも、おはよう」
 ぴーちゃん。小さくて黄色くて可愛いひよこ、である。何のひよこかは分からない。
 コーヒーが連れてきた、コーヒーと同じ大切な家族の1匹である。それで充分だ。
 ……風の噂によるとコカトリスの子だというので、確かめるのが怖くて追求できないというわけではない。
「分かってるから。おすわり。水を飲むまで待ってくれよ」
 ぴーちゃんの頭を撫で、コーヒーの体を撫でてその場にぺたりと座らせた。
 コーヒーは目を細めて主人の動向をじっと見つめる。短い尻尾が床を掃除するかのようにぱたぱたと動いた。口には赤色の可愛らしいリードを加えている。


 このリードは主人と恋仲である少女が選んで購入したもので、1人と1匹にとってはただそれだけで格別の意味を持っていた。
「さ、行くか」
 和錆は喉を潤し終えると、コーヒーの頭からぴーちゃんを下ろした。
 リードを受け取ってコーヒーにかけてやれば、いざ行かんとばかりにコーヒーは先を急いだ。その隣を、ぴーちゃんがせわしなく歩いている。
 和錆は笑ってリードを引いていなしつつ、家を出た。
 近くのバザールに美味いパン屋があるのだ。そこで朝食を調達しつつ朝の散歩を済ませるのが、コーヒーが家族になってからの日課だった。


 とつ、とつ、と白い干し煉瓦の道を下っていく。
 同じ色の建物が並ぶ中、ひどくまばらに植えられている背の低い樹木がミスマッチもいいところで、通るたびに和錆に苦笑にも似た笑いを誘った。
 植えた人間の気持ちは、分からなくもない。必死だったのだろう。
 そうして大通りを抜けて小道に入ると、バターを焦がしたようないい匂いが立ちこめてきた。行く先の建物に、申し分程度に金網のような看板が下げられているのが見える。
「コーヒー。おすわり、まて」
 看板の下にコーヒーを座らせて、和錆は扉を開けた。
「おはようございます」
「1わんわんだよ」
 開けた瞬間に飛び込んでくる、焼きたてのパンの強い匂いと、どこか不機嫌にも聞こえる女の声。
「ええ、分かってます」
「そこの犬のも1わんわんだ」
「はい。2わんわんですね」
 しわの見え始めた手に2わんわんを渡すと、2つの袋になって返ってくる。
 ひとつは朝食用。もうひとつはコーヒーのおやつ用で、こちらは塩分や砂糖など、余分な成分をわざわざ抜いて作られたものだ。小さく砕けばぴーちゃんも食べられる。
 不機嫌そうに見える一方、こうした親切が感じられるところも、和錆がこの店を気に入っている理由だった。
「道に植えられている木、大きくなってますよね」
「世話をしている物好きがいるからね。そこらに通ってる学生だ」
「帝國初等学校の?」
「ああ、そんな名前だったね。森国の真似事をしたいなら、木ごと持っていけばいいものを。
 毎日ぎゃあぎゃあ、うるさくてかなわん」
 木が植えられたのは、少し前、果ての砂漠の真ん中に森を見たという噂が聞かれた頃だ。
 なんでも宰相が用意したらしい(その手段については貝を閉じたようにまったく以て聞かれなかったのが宰相府藩国らしいのだが)とのことで、一部の先走った富める者達が、自宅の庭やら街道やらに植林を始めたのだ。
 だが、知識も腕もなく、ただ植えてみただけでは根付くはずもなし。
 加えて、宰相が緑地化を始めたのが『宰相府に迷宮が出たら面倒が少ない』という理由だったことが知れ、植えられた樹木は、まもなく資金と共に学のある場所に納められたのだった。
 体のいい厄介払いである。
「そのうち、並木道が見られるかもしれませんよ?」
「……まあ、一晩で空が海になる国だからね。何が起こっても不思議じゃないが」
「俺は素敵だと思います」
「そうかい。さあ、商売の邪魔だ」
 犬を追い払うように手を振られ、それが合図とばかりに和錆は踵を返す。
「じゃあ。また来ます」
 外を見れば、小道に幾人もの人影が見えた。がやがやと人の騒ぐ音に混じって、時折大きな客引きの声が届いてくる。
 籠に果物を詰めた女が店内に入ってくる。背の高い男が忙しそうに通りを抜けていく。白い制服を来た少女が、コーヒーを見て歓声をあげる。
 コーヒーは尻尾を振って立ち上がり、少女に駆け寄ろうとして……引っ張られた。和錆がリードを短くして、近くの柱に結わえておいたのだった。
「……ったく」
 和錆は苦笑すると、「すみませーん」と声を上げた。

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